2014年2月26日水曜日

水曜企画-ハルモニと​共に【243】

☆特定秘密保護法の先には集団的自衛権があり、その先にはまちがいなく戦争が。
なんとしてもその道を回避しなければ。

◎【コラム】”国会の葬式”(2月24日 中国新聞http://www.chugoku-np.co.jp/column/article/article.php?comment_id=34470&comment_sub_id=0&category_id=143&category_list=143&localfrom=column&pl=5961970989
<要約(原文は上記アドレスにアクセスしてご覧ください)>
22日、高知市で100人ほどが参列し葬式が行われた。
遺影は「国会議事堂」。国会の葬式だ。
「特定秘密保護法を成立させたのは議会政治にとって自殺行為だ」として元国会議員たちの呼びかけで挙行された。
この手本は132年前の「新聞の葬式」。明治憲法を批判した高知の新聞社が発行禁止の処分になったことに対する抗議として紙面を棺に入れて歩いた。
与党はおごり、野党はそのおごりを追及しきれない体たらく。
国会が正しく機能するために奮起しなければならない。

2014年2月23日日曜日

2014年2月の学習

映画戦時下の軍機保護法・治安維持法(=秘密保護法)に学ぶ
戦時中の法律によって引き起こされた事件を振り返り、秘密保護法を強行採決し、改憲に向け暴走する安倍政権の劣悪さを学びます。

◆”レーン・宮沢事件~もうひとつの12月8日”(ビデオプレス製作 DVD)
ビデオプレスホームページ http://vpress.la.coocan.jp/miyazawa.html
『日本が真珠湾攻撃を開始した太平洋戦争開戦日の1941年12月8日早朝、外国人を中心に多数の人々がスパイ容疑で検挙された。
この時、北海道大学学生2年の宮沢弘幸さんと北大予科の英語教師ハロルド・レーンさん、妻のポーリンさんの3人が軍機保護法違反などの疑いで逮捕され、それぞれ懲役12年から15年の刑を受けた。
獄中で宮沢さんは網走刑務所で激しい拷問を受けている。
旅行好きの日本青年と米国人教師との人間的交友がスパイとされ、かれらの人生すべてが打ち砕かれたのだった。
宮沢さんは1945年10月釈放されたが、獄中で結核を患い1年4ヶ月後に死亡した。この知られざる事件の真相を追ってビデオ制作チームは、アメリカ・イタリアまで取材し、その全貌をはじめて映像化した。』

◆”そもそも総研「今の秘密保護法案、悪用されないと言い切れるんですか?」”(テレビ朝日「モーニングバード」2013年10月31日放送分)
 


◆”そもそも総研「今もう一度、治安維持法から学ぶべきことがあるのでは?」”(テレビ朝日「モーニングバード」2013年11月14日放送分)

2014年2月19日水曜日

水曜企画-ハルモニと​共に【242】

☆韓国では「慰安婦」問題がニュースにのぼらない日はありません。
そして、韓国のあちらこちらの博物館や資料館では日本の植民地支配の劣悪さが示されています。
被害を受けた人は受けた被害を更によく知り、被害を与えた者は与えた被害を知らないままです。
被害を与えた者が最も与えた被害を知らなければいけません。
日本人が日本を最もよく知らなければ。

◎【ニュース】"「日本軍が慰安婦強制した事実は否定できない」、オランダ人もインドネシアで被害─中国メディア"(2月19日 新華経済http://www.xinhua.jp/socioeconomy/photonews/373852/
『中国・人民日報の報道によれば、オランダ国際ラジオ放送(RNW)の中国語電子版がこのほど、「オランダも日本ファシズムの被害者だ」と題した記事を掲載した。
第二次世界大戦中にインドネシアで旧日本軍の暴行を受けたオランダ人について紹介。
「日本軍が慰安婦を強制徴用した事実は否定できない」としている。中国婦女報が18日伝えた。
報道では、インドネシアでの慰安婦の歴史をつづった「慰安婦」のタイトルの著書を持つオランダ人記者が、「一部の日本人は従軍慰安婦の存在を認めようとしないが、これらの証拠の前では否定できない」と強調。
著書は多くのデータ、文書を元に現地で被害を受けたという慰安婦女性たちについて伝え、慰安婦が制度化されていたことを示しているという。
報道では「日本がインドネシアを占領していた頃、多くのオランダ人女性が慰安所に連れて行かれ、日本の軍人に性的サービスを提供するよう迫られた」と紹介。
「3オランダと中国には当時、共通の敵がいた。
アジアの国を解放すると主張しながら残忍な行為をした日本だ」と伝えた。(編集翻訳 恩田有紀)』

2014年2月12日水曜日

水曜企画-ハルモニと​共に【241】

◎【現地レポート】”日本軍「慰安婦」問題解決のための 第1113回 水曜デモ”
於 ソウル日本大使館前 12:00~13:00
今日は少し寒さもましで、天気もいい中、水曜デモが行われました。
参加されていたハルモニはキム・ポクトンハルモニとキル・ウォノクハルモニ。
フランスのアングレーム国際漫画祭に出品した漫画を描いた漫画家たちも参加。
他、日本からは日本軍「慰安婦」問題解決全国行動共同代表梁澄子さん。そして靖国神社に行ってきたと言う学生たち。
経過報告の中ではもちろん、村山元総理の訪韓について言及していました。
挺対協から論評も出ていて、決して歓迎できる訪韓ではないと。
村山元総理に関しては、「慰安婦」問題の国の責任を「女性のためのアジア平和国民基金」によって”金”の問題にしてしまったと。
韓国内の政治的な思惑もある中で韓国・正義党の村山元総理招聘となったようでもあるし、挺対協のいうことを理解します。
ただ「女性のためのアジア平和国民基金」が設立された時の政党間、政党内等の様々な葛藤を知ると、頭から村山元総理のことを否定するのも違うような気がします。
違うと言うか、もったいない。
基金を作った時、決して、”金で解決”しようとしたのではなく、どうにか被害女性に補償できないかと真摯に考えた政治家たちもいたことを知れば、今回村山元総理がこうして国際的に表立って出てきたことを、否定して拒否するのではなく、いのち綱の一本として考えることができるのではないでしょうか。

カチンコドキュメンタリーフィルム「空色の故郷」
製作・著作 金素榮/日本語字幕製作 ビデオ工房AKAME / DVD 93分/2000年 韓国
『旧ソ連で、沿海州に住むコリアン20万人が中央アジアに強制移住された。
《アジアのピカソ》と呼ばれる画家シン・スンナムが描いた畢竟の大作「レクイエム」は、その悲劇を再現する。
生存者による証言、アーカイヴ映像で明らかにされた貴重なドキュメンタリー。
観客は3×44メートルの知られざる傑作「レクイエム」に圧倒されるだろう。』

2014年2月5日水曜日

水曜企画-ハルモニと​共に【240】

◎【現地レポート】”日本軍「慰安婦」問題解決のための 第1112回 水曜デモ”
於 ソウル日本大使館前 12:00~13:00
立春寒波の中、旧正月明け最初の水曜デモが行われました。
参加していたハルモニはキム・ポクトンハルモニとキル・ウォノクハルモニ。
学生たちが多く参加していました。
デモ参加者と大使館の間の道路を通る車から、「ハルモニたちに謝罪を!」と大きな声でデモに激励の言葉を残していったおじさんがとても印象的で、デモ参加者の中からもふっと笑みがこぼれていました。寒空の下でしたが心が温かくなった瞬間でした。
そしてデモの声明文にも書かれていましたが、やはり、NHK新会長の発言について活動経過報告の中で言及されました。
「歴史を知らない人はバカだ」
と言うユン・ミヒャン挺対協常任代表の言葉にうなづくばかり。
1月26日にファン・クムジャハルモニが亡くなられ、また中国の「慰安婦」訴訟の原告である被害女性・陳林桃ダーニャンも亡くなられ、どんどんと寂しく、つらく、厳しくなってきています。

◎【訃報】ファン・クムジャハルモニ(挺対協より)
『日本軍「慰安婦」被害者ファン・グムジャハルモニが1月26日午前1時30分に亡くなられました。(享年91歳
ハルモニは1924年にハムギョン道で生まれ、13歳ごろにハムギョン北道フンナムのガラス工場で働き、約3年後に間島地方で戦争が終わるまで日本軍「慰安婦」生活を送りました。
解放後、家族親戚のいない(分断線の)南側に定着し、日本軍「慰安婦」被害の後遺症で対人忌避症となり寂しい一人暮らしをしてきました
簡単には人を信じず人間関係を断絶し生きてきました。
日本軍「慰安婦」被害者に申告後もハルモニは公開活動をしませんでした。
勤勉で有名なハルモニは古紙回収でためたお金を貯金し、政府からの生活支援金も使わずあつめ、2006年から地域の区庁に奨学金として寄付しました。
未来世代のため全財産を寄付したハルモニにはつつましい賃貸アパートだけがすべてでした。
ファン・グムジャハルモニが亡くなり、生存者は55人になりました。』

◎【訃報】陳林桃ダーニャン(第1次中国人「慰安婦」訴訟弁護団より)
『1995年、第1次中国人「慰安婦」訴訟の原告 陳林桃さんが1月29日自宅でなくなりました。
陳さんは1923年山西省う県侯庄村で生まれ、15才で結婚して羊泉村で生活していましたが、夫が八路軍に参加し、夫の両親と羊泉村で生活していた1943年旧暦7月ころ、村の川で洗濯しているところを日本軍兵士に捕まりました。
そして同じ日に李庄村で捕まった侯冬が(女篇に我)とともに進圭村に連行されて監禁され日本軍兵士から性暴力をうけました。
捕まった最初の日に日本軍兵士から「夫の居場所を言え」と言って拷問を受け、そのとき大腿骨を骨折しました。
一緒に捕まった侯冬がの世話になりながら約20日間監禁され、その後解放されましたが、重度のPTSDと骨折による大腿骨の変形が後遺症として残っていました。
陳さんは、提訴の時から肺気腫を持っていて、片肺が機能せず呼吸が辛そうでした。
どうしても日本へ行って被害を訴えたい、という強い希望を、私は陳さんのこの病状から現地の病院でも診断して戴きましたが、無理と判断し、中国人「慰安婦」事件の6人の原告の内ただ一人、来日できませんでした。今になってみると、あんなに直接裁判所で訴えたいと言っていた陳さんの希望に添えなかったことをとても苦しい思いで思い出しています。
これで6人の原告の内、ご存命なのは李秀梅さんただ一人になってしまいました。』